林光寺について

——林光寺沿革——

起源、山号、寺号及び所属

 伝承によれば、林光寺の起源はたいへん古い。千四百年の昔、聖徳太子当地方へご巡幸のみぎり、第一世顕真、「太子ニ御帰依申シ上ゲ、後ニ優婆夷トナル」との記述がある。そのころは、天台宗で雲顕院と称していた。
 それより四百年、今より約千年前、「境内松樹ニ龍神ノ燈明ヲ上ゲタマフ。」よって、山号を龍燈山、寺号を林光寺と改めた、とある。海難の防止と地域の安全を祈ってのことであろう。
 林光寺過去帳によれば、住職慶西の頃に「開基」と添え書きがしてある。真宗に改宗したのは、蓮如上人三河に布教のとき、多くの寺院が改宗しているので、五百年ほど前のことと思われる。
 徳川時代に三河三ヶ寺の中寺である野寺の本證寺に属し、明治以後、法制改革により真宗大谷派岡崎教区第六組に所属している。
(蓮如上人五百回御遠忌本堂修復・書院落慶法要記念誌より)

——林光寺略年表——

ときこと
西暦600頃雲顕院 天台宗
1000頃境内松樹に龍神の燈明を掲げ「龍燈山林光寺」と改称
1490頃か
1630頃
真宗に改宗
1862親鸞聖人六百回御遠忌
189110月濃尾大地震、その後本堂等補修
1898蓮如上人四百回御遠忌
1912親鸞聖人六百五十回御遠忌
1927鐘楼建立
19451月13日三河大地震、その後本堂等補修。7月9日三代前龍華逝去
1948蓮如上人四百五十回御遠忌
1962親鸞聖人七百回御遠忌
1974本多順賢住職就任
1985門徒会館落慶法要・親鸞聖人御誕生八百年法要4月29・30日
199110月19日滋賀県近江町光圓寺より後継者祐徹を迎える
1992玄関改築
19957月14日先々代住職本多順邦逝去
19964月本堂大屋根補修。瓦全面取替え完了
19974月書院改築完了。5月造園工事及周辺整備完了
19985月9日・10日蓮如上人五百回御遠忌。本堂修復・書院改築落慶法要
2002本多祐徹住職就任
2011親鸞聖人七百五十回御遠忌・山門並水舎落慶法要

——私たちの宗旨——

本尊阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
宗祖

親鸞聖人しんらんしょうにん

宗旨浄土真宗
宗派真宗大谷派
本山

真宗本廟しんしゅうほんびょう

経典浄土三部経

『仏説無量寿経』(大経) ぶっせつむりょうじゅきょう だいきょう

『仏説観無量寿経』(観経)  ぶっせつかんむりょうじゅきょう かんぎょう

『仏説阿弥陀経』(小経)   ぶっせつあみだきょう   しょうきょう

宗祖の主著

『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)
けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい きょうぎょうしんしょう

——浄土真宗——

 浄土真宗いう仏教は、親鸞聖人によって明らかにされた、私たち人間が苦しみを超えていく道です。自身の事実と向き合い、その道理を知ることで私のまま引き受けていける身に転ぜられていく教えです。本当は自分はどうなりたいのか、生きるよろこびや生まれた意味は何なのか。ともに仏法にたずねていきましょう。

——宗祖親鸞聖人——

 宗祖親鸞聖人は、承安3年(1173)京都の宇治に程近い日野の地に誕生されました。
 9才の時、青蓮院の慈円(慈鎮)和尚のもとに出家得度し範宴と名のられました。
 以後20年間比叡山での懸命の修学を経て、なお深まる問いを抱え、建仁元年(1201)六角堂に百日参籠されました。そこで観世音菩薩の夢告により法然上人の吉水の草庵を訪ねられ、「専修念仏」の教えと出遇われました。そのことを聖人は「雑行を棄てて本願に帰す」と記されています。
 しかし、法然上人に反感を抱く延暦寺や奈良興福寺の訴えを受け、朝廷は承元元年(1207)法然上人一門に死罪・流罪という厳しい弾圧を加え、親鸞聖人は越後に流されることとなりました。
 以後聖人は「愚禿親鸞」と名のられ、流罪が解かれた後は関東に移られます。そこで厳しい境遇を必死に生きる田舎の人々と共に生き、そこに念仏の教えを伝えていかれました。
 晩年京都に戻り弘長2年(1262)、90歳で生涯を閉じられるまで、聖人は一生を念仏に捧げられました。
 それは、師法然上人の「ただ念仏」(専修念仏)の教えこそが、あらゆる人が凡夫として平等に救われる“真の仏道”(浄土真宗)であることを自ら開顕する歩みでありました。